【法令・研修委員会だより】令和7年度まち歩き…岸辺型美観地区の考察「高瀬川と角倉了以」―すみのくら りょうい―

洛中支部 名和 啓雅

 文献によりますと、1614年に約8年の歳月をかけて川幅8m、全長11kmの大運河が完成しました。当初、鴨川から角倉家の屋敷に水が引き込まれ、そこから木屋町沿いを南に十条付近で再び鴨川に放流されました。現在は全長4.8kmの普通河川です。

 嵯峨の角倉に住んでいた了以は、企業家であった祖父と医者であった父の科学的精神の影響で土木学を学び、越南(ベトナム)との朱印船貿易を成功させて富を築いた人物です。
 高瀬川以外にも富士川や大堰川など河川疎通事業に携わりました。
 京都の豪商だった了以は幕府の許可を得て私財7万5千両を投じて運河開削を行ったということです。開削当初の目的は東山の方広寺大仏殿の再建のための資材運搬でしたが、後々に伏見と京都間の物資運搬に利用しようというのが了以の考えでした。

 運搬料としての舟賃は、1回2貫500文(現在の6~7万円相当)で、幕府へ1貫文、舟の維持費250文、角倉家収入1貫250文です。人馬で荷物を運ぶより、ずいぶん安いこともあり繁盛したそうです。莫大な私財を投じた角倉家にも十分な利益が返ってきていたことがうかがえます。船底の浅い浅瀬用の舟は、了以が岡山の和計川を視察した時に思いついたと伝えられています。
 高瀬舟が行き来する高瀬川は江戸期から大正時代まで京都の物流の大動脈でした。
 諸国からもたらされる物資は大坂に集められ、淀川を経て伏見に届き、高瀬舟で運ばれました。下り(京→大坂)は半日、上りは1日だったといいます。
 人を運ぶことはなかった高瀬川ですが、小説「高瀬舟」にあるように島送りになる罪人を運ぶこともあったようです。余談ついでに、木屋町四条下ル西側に船頭町という地名があります。舟を曳く船頭衆が遊びに行った郭を“せんど丁”といい、後に“ぽんと”に変わったという説があります。米軍が作成した戦前の地図にもSentochouの記載がみられ興味深いです。高瀬川は川幅が狭いので舟のすれ違いや荷物の揚げ降ろしが舟を通すときに邪魔になります。そこで渋滞を解消するための「舟入」ができました。手元の資料では二条~四条間には八つの舟入がありましたが面影を残しているのは京都ホテルオークラ東の「一之舟入」だけとなっています。市によるとその後の調査で舟入は九つあったということです。
 そのような暮らしの中からできた町並みが、このまちの景観を作ってきています。また、木屋町通りは伏見と共に日本最初の電車が通った通りです。高瀬川が担っていた運輸は電車が代替わりするようになり高瀬舟はその役目を終えたことになります。五条の交差点では五条通を斜めに横切る道があり、ちょっと不思議な感がありますがこれが軌道の後だったことは私たちの記憶から消えかけています。

高瀬川沿いの景観 (家屋や店の入口は西木屋町通りから)
木屋町通り東側の家並
西木屋町通(美観地区線引きによる家並の不釣合い
現在は数年前に私達の提言により線引き位置が見直された)
昭和 8 年建築の料理旅館
五条花街の歌舞練場

 昔から川沿いに問屋、倉庫や飲食の店が立ち並び今も飲食店や、規模の大きな木造の料理旅館が営業を続ける木屋町ですが、五条を下ると少し雰囲気が変わります。
 菊浜小学校跡に建つ京都市ひとまち交流館への道をちょっと横に歩くと、今はもう川沿いでお茶屋として営業している店などはありませんが、20年くらい前には、まだ五条楽園の名残を残す、屋号の入った暖簾を揚げているお茶屋がみられました。

 河原町通からも見える木造3階建ての歌舞練場は現在使われておらず、このまま朽ち果てるには勿体ない思いも涌いて、建築と生活文化を残せる工夫が望まれます。ここから細い筋をまがりくねったところには、島原の輪違屋のような、なかなか立派な構えのお茶屋建築が残っていました。そして、かつての任侠の組の跡は、道路側は緑地になり、敷地の一角には鉄骨上屋の架構でコンテナハウスとしている建築事例がありました。
 正面通りの任天堂旧本社は改修と増築を施していまはホテルになっていますが、周辺には変わらない昭和の家並も残っています。近年川沿いは整備され、オープンな喫茶店で休憩をとる外国人客もあり、ここにも少しずつ観光とマンションに建て替えの時代の波が及んできているようです。

残っていたお茶屋の店構え
ファサード
任侠の組事務所の跡とコンテナハウス
正面通の任天堂旧本社 現在はホテル

 今回の見学会では、ヒルトンホテルに建替えられたことで全容を現した築57年余経過した河原町カトリック教会の裏側が見られたり、水辺に新旧様々な建物が混在していることによる木屋町の雑然とした魅力や風情を感じることができました。京都に限らずまちには変わる良さと変わらない良さとがありますが、新景観政策が施行20年となる現在、結果として画一的な形態を求めることになっている基準のあり方に、私たちはあらためて根気よく問い続けていく必要があると思うのです。

(令和 8 年 5月記)

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